小梅はいつものように、父親の仕事場にお弁当を届けた帰り道、ふと見上げると空にはどんどん雲が増えていき、怪しい空模様でした。
「洗濯物しまわなくちゃ」
小梅は少し早足で家路を急ぎましたが、まもなく、ぽつ、ぽつと雨が降ってきたと思うとあっという間に大粒の雨が降り出しました。
小梅は仕方なく、目の前の家の軒先に入りしばらく雨宿りをすることにしましたが、どんよりとした雨雲の下で一人じっとしていると、なんだか暗い気持ちになってしまいます。
小梅はこの間、お松姉さんと竹子姉さんが噂していたあの話がまだ心の奥に引っかかっていて、このことばかり考えてしまうのでした。真さんという名の学生があのお屋敷の息子さんで、近々お見合いをするという噂は、小梅が会ったあの真さんの事なのかどうかまだ分からずにいました。
傘を持たない人々が目の前を走りさっていくのを眺めていましたが、ふと学生姿の男性が小梅のいる軒先に駆け込んできました。
小梅はその見覚えのある背格好に、もしかしたらと思い、学生さんの顔を見上げると、目が合いました。間違いなく、その人はあの真さんだったのです。
真さんも小梅と目が合うと一礼をしました。
「突然の雨でしたね」
真さんの親しみのある声は小梅のことを覚えていたことを意味しています。
「は、はい…」
小梅も小さな、小さな声でようやく返事をしました。その後二人は終始無言でしばらく雨を眺め続けていましたが、雨は徐々に小降りになってきたようで、遠くの空が明るくなっているのが見えました。
真さんが不意に
「私は綾小路真と言います。」
と自己紹介をし、続けて言いました。
「貴方のお名前は?」
「はい、小梅です…」
小梅は苗字を名乗ることも忘れ、小さな声でそれだけ言うと、まだ小雨の降る通りに飛び出して駆け足でその場を去ってしまいました。
足早に走るうちに胸の高鳴りが苦しくなって、家のすぐそばまで戻ってきたことが分かるとその場に立ち止まりました。この胸の高鳴りは走ったことだけでは無いようです。辺りはすっかり雨が止み、爽やかな風が小梅のほほを撫でました。
「私のこと、やっぱり憶えていてくださった…」
それだけではありません。真さんは自らを名乗り、そして小梅の名前を聞きました。小梅は慌てふためき、小梅としか名乗っていないことが、まるで自分が小さな子どものようで恥ずかしくなりました。それでも真さんと偶然お会いできて、お名前がわかっただけでも、小梅にとっては大きな幸せでした。ほんのひと時でしたが、真さんとこんな近くで会話ができたことは夢のようです。
小梅は高鳴る鼓動を抑えることができないまま、家路に着きました。
イラスト:CM「とおり雨」篇(1981年)より
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